Pictet Story


ピクテ・グループ200余年の歴史






Story Ⅰ(1805-1841)

1805年7月23日、2人の20代の若き銀行家、ジャコブ・ミッシェル・フランソワ・ド・カンドル(Jacob-Michel-François de Candolle)と、ジャック・アンリ・マレ(Jacques-Henry Mallet)は、他3人のリミテッド・パートナーと共に、ジュネーブにてパートナー契約に調印しました。このパートナー制の会社は幾度かの社名変更を経て、現在に至ります。



Story Ⅱ(1841-1878)

1841年、ピクテ家の一族が初めて銀行の経営に加わり、その時から銀行に「ピクテ(Pictet)」という名が付き現在に至ります。ジャコブ・ミッシェル・フランソワ・ド・カンドルには後継ぎとなる息子がいなかったため、亡くなる少し前に妻の甥であるエドゥアール・ピクテ(1813-1878)に跡継ぎを頼み、エドゥアール・ピクテは1841年にパートナーとなります。銀行の名はテュレッティーニ、ピクテ・アンド・シーとなり、その名は1848年まで続くことになります。



Story Ⅲ(1878-1909)

銀行の創設者の一人であるジャコブ・ミッシェル・フランソワ・ド・カンドルの孫息子、エルネスト・ピクテ(1829-1909)は53年以上に渡りそのパートナーを務めました。 エルネスト・ピクテは鋭いビジネス感覚の持ち主で銀行に新しい風を吹き込みました。彼はアングロ・サクソン流リベラリズムの熱心な提唱者であり、この経済原理をもって銀行の新しい事業を推進していきます。



Story Ⅳ(1909-1939)

エルネスト・ピクテの次男であるギヨーム・ピクテ(1860-1926)は1889年、29歳で父親のもとでピクテのパートナーとなります。ピクテはおよそ60人の従業員を抱え、当時としては規模の大きなプライベート・バンクに成長しています。ギヨーム・ピクテは著しく進展する産業高度化時代の中で事業を大きく発展させました。



Story Ⅴ(1939-1950)

第二次世界大戦の被害から立ち直るため、ピクテは業務を多様化し、不動産や商品への投資を開始、1950年以降には資産運用が復活の兆しをみせ始めます。



Story Ⅵ(1950-1980)

20世紀後半、スイスはバンキング・センターとして大いなる発展を見せましたが、特にプライベート・バンカーは目覚しい発展を遂げます。専門的職業としてのプライベート・バンキングは、金融技術と事務処理プロセスの両方の観点で、より国際的で洗練されたものとなり多様性を見せ始めます。とりわけ法律の一層の複雑化にも関わらず、プライベート・バンクは発展し続けました。



StoryⅦ(1980-2005)

1980年から2005年の間、ピクテは高まり続ける個人投資家および機関投資家からの要望に常に応えてきました。市場と顧客のグローバル化を背景に、ピクテは、資産残高とともに増加する顧客へのサービスの提供のみにとどまらず、新しい投資手法や最新の運用技術を考え出してきました。グローバルな視点による資産保全へのアプローチをさらに発展させることが求められていたのです。 ピクテの事業はスイス国内外で拡大、それに伴い運用管理や本部機能も拡大していきました。社員数は増加し、1980年に300名に満たなかった社員数は2005年には2000名を超えました。 2世紀に渡って高い信用力と堅実性を確かなものとする精神と伝統を維持し、顧客や市場からの要望を予期し、難題を乗り越え、ピクテは国際水準のプライベート・バンクとなりました。



Story Ⅷ(2005-2018)

2005年以降、ピクテでは経営権と経営体制において重要な変更が2度ありました。2006年、ピクテでは初めてシニア・エグゼクティブに対し株主となるチャンスを与え、2017年末には6名のマネージング・パートナーを含む49名の株主が誕生しました。 さらに重要なのは、2014年1月にピクテのスイスの銀行の法的形態を変更したことです。200年以上に渡り、パートナーシップ制をとってきたピクテ・アンド・シー(Pictet & Cie)は、バンク・ピクテ・アンド・シー・エス・エイ(Banque Pictet & Cie SA)として有限責任会社になりました。株式合資会社Pictet & Cie Group SCAが確立され、全てのピクテ・グループ会社が一つになりました。





サイド・ストーリー

ジュネーブがスイスの州になるとき

シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンの物語

ピクテ家の1人、シャルル・ピクテ・ド・ロシュモンは、ピクテ銀行の経営に直接関わることはありませんでしたが、ジュネーブという都市、そしてスイスの中立性をヨーロッパの大国に承認させた人物として、語り継がれています。



Story Ⅰ

今からおよそ200年前の1814年10月、ウィーン会議が始まりました。そこにはヨーロッパの大国の指導者と並んで小さなジュネーブの代表団が参加していました。彼らが後にジュネーブ共和国の運命とヨーロッパにおけるスイスの地位を変えることになります。
1814年とはジュネーブの歴史において非常に重要な年です。小さな共和国は、ほぼ300年間の独立と16年間のフランスによる支配の後、スイスの22番目の州(カントン)になろうとしていたのです。



Story Ⅱ

シャルル ・ピクテは 1755年9月21日にジュネーブで生まれました 。父親のシャルル・ピクテ ・ド・カルティニー(Charles Pictet de Cartigny)は当時オランダの傭兵大佐でした。独立的な精神を持っていた彼は、小市参事会(政府)がルソーの『エミール 』と『社会契約論』を出版禁止にしたとき、公にルソーに味方した唯一の貴族でした。そのため彼は非難され、拡大市参事会(州議会の前身)から一時的に追放されました。



Story Ⅲ

ピクテ・ド・ロシュモンは、幼少期からカルティニーにある家族の家で田舎生活の基礎を教わっていました。農家言葉を学び、耕作、牧草、刈入れ、ブドウの収穫を覚え、また家畜の世話も覚えました。
故に政治から離れた後に農業に目を向けたのは、彼にとってはほとんど自然なことでした。ただそれは単なる情熱以上のものであり、彼は数年で農学分野の顔を成す人物の一人となります。



Story Ⅳ

ピクテ・ド・ロシュモンは、60歳にして外交という新たなキャリアを始めることになります。それはほんの2年ほどですが、この間に彼はパリからウィーンへ、そして再びパリへ、最後にトリノへと奔走しました。一見そうは見えませんが、彼の経歴の全てがこの時のための準備となっていたのです。独立的精神に満ちた家族、多言語の習得、政治に対する穏健な考え方、フランスでの軍人経験、『イギリス図書館』の編集、そしてヨーロッパの多くの統治者に売ったメリノの羊毛…。



Story Ⅴ

この間、1815年5月19日にジュネーブはスイスに加盟しました。これによりピクテ・ド・ロシュモンは、パリにおいて新たな州と同時にスイス連邦を代表することになりました。よって今度はより強固な外交的地位とより優れた任務命令を受け、再びパリを訪れたのでした。さらに、タレーランは失脚しフランス代表としてピクテの前に現われたのは、オデッサの羊牧場を通して知り合ったリシュリュー公爵でした。1815年11月20日のパリ条約の締結により、ピクテはフランスから6つのコミューン(プレニーとヴェルソワを含む)を獲得し、これによりジュネーブとスイスは隣接した境界線を持つことができました。ペイ・ド・ジェクスはフランス領のまま残りましたが、経済的に州と連携する無関税地域となりました。



Story Ⅵ

こうしてジュネーブは1816年に飛び地がなくなり、その歴史上初めて、今日と同じ一つにまとまった領土を形成しました。
ピクテ・ド・ロシュモンは、当初はジュネーブのためにサレーヴ、モン=シオンとヴュアシュの山々の自然境界線をベースとしたより広大な領土を願っていました。しかしながらこの小さな州の周囲(ペイ・ド・ジェクスとサヴォワの一部地域)は無関税地域となったため、ある程度の中期的経済永続性が保証されることになりました。
ピクテ・ド・ロシュモンが勝ち取った国境とともに、改革を乗り越えた昔からのジュネーブ人と新たに加わったコミューンのカトリック系農民たちの統合から成る、新しいジュネーブ州民が誕生しました。