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- 高いインフレ予想がもたらす物価のパラダイムシフト
日本の個人のインフレ率予想は、実際の値を大きく上回り、他国を凌ぐ水準となっている。日々目にする品目の価格がこれまでになく上昇していることで生じる“サプライズ”が個人のインフレ・マインドを刺激している可能性がある。現在IMFは、中長期的には日本でも他国並みの2%程度のインフレ率が定着すると予想している。しかし、高いインフレ予想が長期化した場合、予想が自己実現し、更なる物価上昇や、想定以上の金利上昇、株価の下押し圧力にも繋がりうるため注意が必要だ。
■ 高水準の日本人のインフレ予想
日本のインフレ率の高止まりが続いているが、これと並んで、あるいはそれ以上に懸念されるのが、個人のインフレ予想の高止まりである。日銀が四半期ごとに行っている「生活意識アンケート調査」によれば、直近で日本の個人が予想する1年後のインフレ率は11.5%と、勢いが弱まってきた欧米の予想に比べ、極めて高い水準に留まっている(図表1)。5年後のインフレ率予想も7.8%と他国よりも相当高い。また、プロである債券市場が織り込む期待インフレ率とも大きな格差がある。
しかも、これらの予想の、実際のインフレ率からの乖離幅も他の国に比べて大きくなっている(図表2)。データの取得方法等に違いがあり、横比較は難しいものの、これまでとは異なる傾向が表れていることは注目に値する。
因みに、日本人は、インフレを長く経験してこなかったため、物価に関する知識が不足しているせいではないか、という疑問が湧くかもしれない。しかし、「金融リテラシー調査」(直近は2022年)で物価に関する知識を他国と比べても、インフレの概念に関する質問(例えば「インフレ率が 2%で、普通預金口座であなたが受け取る利息が1%なら、1年後にこの口座のお金を使ってどれくらいの物を購入することができると思いますか」等)の正答率は日米ともに55%程度で違いはみられない。だとすれば、日本人の高いインフレ予想には、知識以外の何か別の理由があるはずだ。
■ 高すぎる予想インフレ率の背景
一般に、個人の予想は、足元の傾向に影響を受けやすい。但し、すべての品目の物価動向が個人のインフレ予想に影響を与えているわけではない。
例えば、変動が激しい生鮮食品は、個人のインフレ予想とあまり相関が高くない(図表3)。恐らく、日々の変動が大きい品目の傾向は、四半期のアンケート調査にはそこまで顕著に影響を与えないのかもしれない。米国では同様の“生鮮食品”データの切り出しはないが、変動が激しい食品価格と人々のインフレ予想の相関はコア指数等と比べると低い。
また、日本では、補助金が設けられていたり価格決定に公益性が加味されて価格上昇が抑えられている品目(例えば、燃料、教育等)も、インフレ予想との相関は高くない。
一方で、日本の個人の予想と高い相関があるのは、生鮮食品以外の食品や家具・家事用品等、生活に密着している品目である。
しかし、これらの品目の価格上昇率は、現在の個人インフレ予想の値よりはるかに小さい。なぜ、日本の消費者は、実態より高いインフレを予想しているのだろうか。一つの可能性として、情報の“顕著性” (Salience)の問題がある。個人は、目立つものに過度に惹かれてしまい歪んだ意思決定してしまうという特性がある。どのような情報が“顕著”かといえば、例えば、情報に“サプライズ”が伴う場合、人々のマインドへの影響が大きいとされる。日本の物価については、これまで殆ど値上がりしなかった身近な品目(例えば卵など)が突然値上がりしたことがサプライズを引き起こした。これを見た人々は、目にした品目のみならず、全体に物価が上昇していると感じた可能性がある。
だとすると、現在問題となっているコメ等の値上がりも、当面、人々のインフレ予想全体を押し上げることになりそうだ。
■ 懸念はインフレ・マインドの定着
このような高いインフレ予想を放置すると、日本の消費者にインフレ・マインド、すなわち物価上昇が当然だと思う気持ちが定着する可能性がある。
どの程度の人々がインフレ・マインドを持っているかを示すデータとして、前述の日銀の「生活意識アンケート調査」がある。これによれば、現在、3分の1以上の人々が「(今後物価が上がると予想するのは)物価は上がるものだから」と答えている(図表4)。比較可能なデータは2023年6月以降なので、昔の傾向は不明だが、恐らく、デフレが色濃かった頃は、「物価は上がるものだ」という回答は今より相当少なかったと推定される。この数字は、高いインフレ予想を放置するとじわじわと上昇する可能性がある。
■ インフレ・マインド定着の影響
インフレ・マインドが定着した場合、経済にどのような影響があるのだろうか。
第一に、インフレ予想の自己実現である。消費者は、インフレを予想すれば、モノを買うタイミングを早めるため、消費が総じて活発化する。また、人々が物価の上昇を想定することで、企業も商品やサービスの値段を上げやすくなる。また、物価の上昇を予想する人々は、一層の賃金引き上げを要求するだろう。従来日本では、この賃上げの圧力は低かったが、近年では、政府の意向を受けた春闘の勢いに加え、転職市場の活発化で中途採用についても、賃金が上昇する傾向が出始めている。
このため、インフレ予想の上昇は実際のインフレ率上昇を招く、つまり、自己実現しやすい。
なお、IMFも、日本の中長期的なインフレ率について、以前の1%台半ばという想定より高い2%程度と予想している(図表5)。コロナ前の10年間の日本のインフレ率は0.26%と、主要国の平均に比べて圧倒的に低かった。ところが、他国のインフレ率が今後数年間で概ねコロナ前の水準に戻るのに対し、日本のインフレ率は元の低い水準までには戻らず、他国と同程度の水準で落ち着くと予想されている。過去のデフレ・マインドの払拭がその背景の一つと考えられる。
第二に、物価水準の切り上がりは、金利上昇に繋がりうる。これまで日本の金利が他国より低かったのは、経済成長率が相対的に低いことや、インフレ率が低いことが主因だった。前者については今のところ大きな変化はないが、後者については、これまで述べてきたように、パラダイム・シフトが発生する可能性がある。主要国の10年国債利回りとインフレ率には一定の相関があるが、これに基づき、インフレ率が2%程度で定着した場合の日本の10年国債利回りを試算すると、2%強程度となる(図表6)。
第三に、株価への影響である。インフレ率と株価の関係については、GDP成長率や個別企業の戦略等様々な要因が関係しているため一概には言えないものの、米国の株価と個人のインフレ予想のデータを比べてみると、緩やかな非線形の関係がみられる(図表7)。低いインフレ予想は、人々の消費を減退させるため、企業収益に対してマイナスである。一方、急激な物価上昇も、人々の実質所得を減少させ消費意欲を圧迫する可能性があるため、株価に対しマイナスに働くと考えられる。このため、インフレ予想は高すぎず低すぎない程度で推移するのが株価的にはベストと考えられる。
日本については、デフレの時期が長かったため、今のところこうした関係性は見られない。しかし、高いインフレ予想が続けば、消費意欲の減退から株価の押し下げ要因になりうるだろう。
もちろん、そこまでドラスティックな変化が人々のマインドに短期的に訪れるとは考えられない。しかし、過去にデフレが長期化したのも、人々のマインドの緩やかな、しかし長期にわたる変化によるところが大きかった。今回も、もし強いインフレ・マインドが定着すると、物価上昇が意外に長く続き、現在想定されている以上に金利が上昇し、ひいては株価の抑制要因となる可能性も排除できないだろう。
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