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賃金は上がるか?
市川 眞一
2023/09/05

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概要

2023年春闘における賃上げ率は3.60%と高水準だ。また、岸田文雄首相が注力した最低賃金は、全国加重平均で4.5%の大幅な引き上げとなり、初めて1千円を超えた。それでも、足元の賃金上昇率はインフレに勝てず、実質賃金の伸びはマイナスの状態が続いている。理由の1つは、日本の勤労者は4分の3程度が零細企業で就業しており、組合がないため春闘の集計対象にはなっていないことだ。原材料費の高騰に直面する中小零細企業には、賃金を引き上げる余力がないのだろう。2つ目の理由は、法定最低賃金と賃金の連動制が低いことだ。最低賃金は、賃金を底上げする手段にはならず、むしろ低所得層にとってインフレ下で生活を維持するためのセーフガードと認識すべきだろう。賃金上昇率を大きく左右するのは、労働生産性の伸びに他ならない。産業の新陳代謝を促進すると共に、終身雇用を前提とした制度設計を抜本的に見直し、雇用の流動化を進めることが、インフレに勝つ賃上げの基本的な前提条件と言えるのではないか。



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■ 春闘はマクロ的な賃上げ率を代表しているわけではない

厚生労働省の集計によれば、今春闘による賃上げ率は3.60%、30年ぶりの高水準になった。しかしながら、7月の実質賃金は前年同月比1.3%減少している。物価上昇率が高く、賃上げが追い付いていない状態だ。また、これまでの春闘では、労使が賃上げで合意しても、実際の賃上げ率がその水準に届くことはほとんどなかった。マクロ的に見た場合、春闘が賃金のトレンドを示しているわけではない。

 

 

■ 75%は従業員10人未満の零細企業

日本の勤労者のうち、75%以上が従業員10人未満の零細企業で働いている。春闘は労働組合と経営側の協議であり、組合のない零細企業は集計対象外だ。こうした規模の企業の雇い主は、原材料価格の高騰にも直面しており、コスト抑制の観点から賃上げには消極的と見られる。つまり、経団連に加盟する企業や連合傘下の労働組合の協議の結果は、必ずしも日本の実情を反映していないのではないか。

 

 

■ 2023年度は加重平均で4.5%引き上げ

岸田首相は、全国ベースの加重平均で961円である最低賃金に関し、今年度の改定で1,000円台とすることに拘った。2015年11月の経済財政諮問会議において、安倍晋三首相(当時)が公約した水準に他ならない。47都道府県の労働局長が決めた結果を集計すると、4.5%引き上げの1,004円となり、初の4桁台となっている。最高は東京都の1,113円、最低は岩手県の893円だ。

 

 

■ 最低賃金の引き上げは低所得層の賃上げには貢献せず

これまでの推移を見る限り、最低賃金の引き上げが、賃金全体の底上げを支えてきたとは必ずしも言えない。総務省の家計調査における所得10分位では、最も所得の低い第1階級は2022年の勤め先の収入が賞与などを含めて月間平均18万2,255円だ。これは、最低賃金を月収ベースとした水準に近い。もっとも、最低賃金が継続的且つ大幅に引き上げられてきた一方で、第1階級の所得には大きな変化がなかった。

 

 

■  所得が伸びたのは高所得層

直近10年間で見ると、最低賃金は年率2.5%のペースで上昇したが、第1階級の勤め先収入は年率0.2%減少している。所得10分位で賃上げ率が最も高いのは、第7階級と第10階級の年率1.2%だ。最低賃金の影響を受けない階級である。つまり、最低賃金の引き上げが賃金全体の底上げに貢献し、賃上げが進んだわけではない。最低賃金の引き上げは、低所得者層の生活を維持するための対策と言えるのではないか。

 

 

■ 所得構造の変化は起こっていない

家計調査による所得10分位の勤め先収入でジニ係数を算出すると、2012年0.606、2022年0.613であり、わずかながら所得格差が拡大した。ローレンツ曲線はほとんど変化しておらず、最低賃金が28.3%引き上げられたことによる顕著な違いは見られない。こうした結果を見る限り、勤労者全体の賃上げを目指す上でも、所得格差を縮小する上でも、最低賃金はあまり大きな意味を持たないのだろう。

 

 

■  賃金は生産性の伸びに連動

趨勢的に見ると、日本の名目賃金は労働生産性に連動して推移してきた。また、日本は終身雇用を前提とした雇用システムが随所に維持されており、特に大企業にとって経営が厳しい状況下でも整理解雇は容易ではない。畢竟、固定費の増加を避けるため、企業は賃上げに消極的と見られる。持続的な賃上げを実現するには、労働生産性を上げること、雇用の流動性を確保することが肝要ではないか。

 

 

■ 日本の低賃金は生産性が問題

OECDの統計により、G7各国における労働生産性と年間所得の関係を見ると、統計的な正の相関が浮き彫りになる。つまり、生産性の高い国は賃金が高く、生産性の低い国は賃金も低い。先進国間における賃金の相対的な関係は、かなり合理的に決まっているようだ。日本の場合、主要7か国で最も賃金が低いのは、労働生産性の低さによって理論的な説明が可能と言える。

 

 

■ 賃金は上がるか?:まとめ

賃上げによる消費拡大の好循環を目指し、政府が税制優遇策の導入、政労使による協議や最低賃金の引き上げなど、様々な手を打ってきたことは間違いない。しかし、それは必ずしも期待した結果をもたらさなかった。最低賃金の引き上げは、低所得者の生活維持の施策であり、賃上げの手段ではないからだ。持続的賃上げには、産業の新陳代謝や雇用制度の改革による生産性の改善が必要だろう。ただし、整理解雇の法制化などは政治的ハードルが高く、実現には思い切った政治決断が必要ではないか。

 


市川 眞一
ピクテ・ジャパン株式会社
シニア・フェロー

日系証券の系列投信会社でファンドマネージャーなどを経て、1994年以降、フランス系、スイス系2つの証券にてストラテジスト。この間、内閣官房構造改革特区評価委員、規制・制度改革推進委員会委員、行政刷新会議事業仕分け評価者など公職を多数歴任。著書に『政策論争のデタラメ』、『中国のジレンマ 日米のリスク』(いずれも新潮社)、『あなたはアベノミクスで幸せになれるか?』(日本経済新聞出版社)など。


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